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ほっこりな日本語

私は今、仕事の関係で中国に住んでいる。

中国は日本と近いだけあって、けっこう日本語を目にする機会も多い。

現地の人に話を聞いてみると、日本語を使った方がなんとなくおしゃれというか、それとなく良い感じがするらしい。

ただ、おしゃれ目的で日本語を使ったりすると、思わぬ弊害が出たりする。

たとえば、次の写真を見て欲しい。

 

f:id:otaniyuki1990:20170512221528j:plain

 

「びなっつ」って何だよ!(笑)

ちゃんと辞書引けよ!(笑)

と思わずツッコミたくなるような日本語。

でもなんというか、こういうのって外国人が日本語使ってくれてるんだなーって思うと何となく日本人としては嬉しい感じがするし、外国人の間違いだと思うと、子供の成長を見ている親みたいな感じというか何というか、優しい気持ちで見ていられる気がする。

そんな訳で何となく気持ちがホッコリする感じがするような日本語をこれから紹介していこうと思います。

ブログのネタも無くて更新が滞っていたし、丁度良いな。

 

不定期更新だけど、そこらへんは、それこそ優しい気持ちで見て下さい(笑)

詩みたいなもの

餅をつく。

臼と杵を使って丹念に餅をつく。

一粒一粒の米がつぶされ、形を失う。

米はもうない。

そうして、餅ができる。

 

僕は興味を持つ。

これはいったい何だろう?

 

僕は包丁でこれを切ってみる。少し痛い。

餅は包丁を飲み込んで、尖った形になる。

 

僕は手でこれに触ってみる。少しくすぐったい。

餅は手垢がついて、薄汚れた色になる。

 

僕は虫眼鏡で餅を覗く。少し恥ずかしい。

餅は白い全面を見せるばかりだ。

僕はきっと中に何かが入っていると思い、中を開いてみる。

でも餅には、外だけがあるから中なんてない。

躍起になってこねくり回すと、餅は赤黒くなってしまった。

僕は水晶から水を垂らして、それをきれいに洗う。

 

そうして僕は餅に興味を失う。

それでも餅は何かを体にくっつけたがる。

だから瓶に入れておく。

やがて餅は体育座りを始める。

次第に熱を失っていき、そうして、それ以外の格好ができなくなってしまった。

 

そうして、それから?

もう、おしまい。

自殺の統計の話

内閣府が16日に発表 した「自殺対策に関する意識調査」によれば、

約2割の成人が「本気で自殺を考えたことがある」そうだ。

 

正直、この言葉遣いは良くないと思う。

だって「本気で」自殺を考えたなら、もう自殺してるでしょ?

少なくとも僕はそう思う。

だから僕は「本気で」自殺を考えたことはない。

でも、自殺を考えたことだったらある。

 

たいていの人は自殺を考えた経験があるんじゃないだろうか?

受験や就職、借金などの困難に直面したとき、ふと「死んだら楽になるかも」なんて考えが頭によぎることはあると思う。

思春期の子どもだったら、生きる意味やアイデンティティといった深淵な問題に勝手に首を突っこんでは死にたがっているはずだ。僕はそういう質だった。

 

でも、すくなくとも自殺は自分の意思でできるような代物じゃない。

いくら意志を固めたところで、絶対に脳はストップをかける。

「自殺を考えること=自殺すること」ではない。

実は自殺は環境が引き起こすものだと僕は思う。

 

たとえば、あなたはクラスでいじめられている。

学校に行くとクラスメイトに無視され、陰口をたたかれ、イタズラをされる。

かといって家にいると、親は学校に行くように口うるさく言う。

どこにも居場所がない。どこにも逃げ場がない。どこにも行けない。

こういう環境に何ヶ月も置かれたら、たいていの人は頭がおかしくなるだろう。

脳は自殺に待ったをかけられなくなるから、自殺ができるようになってしまう。

そういうことだと思う。

 

僕は自殺を考えたことがあるけど、幸運なことにそういう環境にはいなかった。

だから自殺しなかった。正確に言えば、自殺できなかった。

ただそれだけのことだと思う。

 

極端な話、僕は自殺者に非はないとさえ思っている。

環境という名の死神が人を殺したのだ。

だから僕たちは、死神に出会ってしまった自身の不運を呪う他ない。

そういう行き場のない悲しい響きが「自殺」にはあるのだ。

夕暮れ時の寂しさに

昔は夕暮れどき空がまどろんでくると、何となく「ああ、今日も一日が終わるんだなあ」なんてノスタルジックな気分に浸ることが良くあった。

中高生の多感な時期のことだ。

 

世の中には全く寂しさを感じる人がいるようだ。

一人でずーっと部屋に籠っていても、全く問題ない。別に人と会いたいとも思わない。

そういう人に対してけっこうな憧れを持っていたりした。

なんせ夕日との別れにさえ寂しさを覚えてしまう訳だから、況んや一人の寂しさをや、という感じだったのだ。

 

かつて、果たして自分は孤独に耐えられるのか実験してみたことがあった。

要するに夏休みの暇を使って家に引きこもっていただけだったのだが、結果は惨々たるものだった。

薄暗い部屋で体も動かさずにぐだぐだしているものだから、まずとにかく気分が落ち込む。やる気が出ない。

そんな状態で何日も過ごして、いきなり寂しさがおそってくるものだから、逃げるように外に出てしまった。

 

しかし一度外を散歩して太陽の光を浴びると、精神は強さを取り戻して何とか立ち直っている自分に気がついた。人に出会うことはなかったのに。

もしかしたら寂しさというものは案外、陽光に左右されるものなのかもしれない。

雨の陰鬱とした気分も、夕暮れ時の寂しさも、つまりはそういうことなのかもしれない。

 

日本語というのは本当に紛らわしいものだ。

精神「力」なんて言うものだから、つい鍛えられるものだと思ってしまう。

寂しさや孤独は鍛えて克服するものでもなければ、いつのまにか慣れてしまうものでもないのではないか。

つまり外部環境に対する自身の反応の知覚なのだ。

 

いくら体を鍛えても、体に針を刺されたら誰だって痛がる。

痛みに耐えることは覚えられても、痛み自体を少なくする事は出来ない。

寂しさもきっと同じだ。

 

そう理解してからは、寂しさを感じることが少しずつ減っていった気がする。

心が強くなったからではない。

人間的に成長したからでもない。

きっと寂しさと出会わない方法を覚えただけなのだ。

 

今では夕日のノスタルジックな風情すら楽しむ余裕が出てきたと思う。

私はいま、夕暮れ時の寂しさに、一人の時間を満喫している。

 

表題はたまの名曲から拝借した。

中国人の好きな色

中国に行って街中を歩いているとと、比較的すぐに目に付くものがある。

それは何か?

 

答えは、真っ赤な横断幕だ。

 

彼らにとっての横断幕は、店の宣伝や会社のスローガン掲示など

生活と密接に関わっている。

集会やイベントでも横断幕を用意することがあるから、よっぽど

なじみがあるものなのだろう。

ここら辺の感覚の違いは、日本人として結構面白いものがある。

 

でもそれ以上に面白いのは、中国の横断幕が「常に赤い」ことだ。

彼らはいつも赤の生地に黄色い文字で何かを書く。

 

以前、中国人に「なぜ横断幕はいつも赤いのか?」と聞いたことがあった。

彼らの返事はこうだ。

「赤は情熱の色だから、中国人はみんな好きです。」

なるほどなー、と納得すると同時に少し違和感がある。

 

たとえば、日本人が好きな色は何だろうか?

赤・黄色・緑・青といった色は浮かぶが、

いわゆる「国民色」とでも呼ぶべき色は見つからない。

 

そう考えると、彼らが発した「中国人はみんな好き」という言葉には、

若干の違和感を感じないだろうか?

 

(ちなみに余談だが、戦隊ヒーローのリーダーが常に赤いのは、

ゴレンジャー放送開始前に、子どもたちにアンケートを採った結果だそうだ。

つまり、男の子と女の子、どちらも当時は赤が一番好きな色だったらしい。

そう考えると、赤が良い理由も分からないではない。)

 

僕が思うに、「赤」といえば共産党を象徴する色だ。

だからこそ、彼らの生活に赤がなじむのは当然のことなんだと思う。

それが、中国の横断幕がいつも赤い理由だ。

でも彼らは「赤=情熱の色」と表現する。

ここに、共産党の影響力の低下とともに、彼らの中に暗に漂う「合理化」のロジックが見え隠れしているようでならない。

 

町中に赤が多いのは何でだろう?情熱の色だからかな?

うん、きっとそうだろう。そうに違いない。

 

でも僕らだって、こういう思考に慣れているはずだ。

たとえば、「日本の伝統」。

 

僕たちは男が働き、女が家を守るという思考に慣れている。

正月に初詣に行くのも当たり前だ。

 

しかし、そういう家族の形は比較的新しく出来たものだし、

初詣はもともと鉄道会社が発案したイベントらしい。

 

現状の風習や習慣を是として、その理由を後付けで考えるのは簡単だ。

しかし時には、その身近な慣習を意識して、

その理由を考えてみる必要があるのかもしれない。

 

中国にて、そんなことを考えた。

説得力っていうやつは

僕たちはテレビに出てくるようなお偉いさんの話を聞くと、

ついつい納得してしまうところがある。

でも、どこの馬の骨とも知らないやつが全く同じ話をしたところで、

全く聞く耳を持たない。

というか、最初から嘘だと決めてかかってしまうところがある。

 

綾小路きみまろさんは昔からあの芸風だったそうだけど、

若い頃は、「若造が中高年語りやがって」って感じで受け取られて、

全く受け入れられなかったそうだ。

それが、本人がいざ年を取ったらあの人気。

 

説得力っていうやつは、言葉の力とイコールではないような気がする。

むしろ誰が言うか、そしてどう受け取るかの問題。

言葉の選択や並び方なんてものは、もしかしたら50%以下なんじゃないだろうか。

もし半分以上が言外の力に依っているとしたら、これはなんていうか、めんどい。

 

「正しく伝える」そして「正しく伝わる」ことは、言葉と自分と相手の三者が、

十全な状態にあってはじめて可能になるのだとしたら、これ以上煩わしい事はない。

 

そうやって考えると、このブログっていう手段は意外なまでに説得力がないのかもしれない。

つまりさ、インターネットにつながっていて全世界の人が閲覧できるはずなのに、

言葉自体は届いているはずなのに、響かないんですよ。

書き手の人物像が不透明だから。

 

・・・・・・ブログやめよっかな(笑)

同窓会って…

「 今度同窓会があるから、ダイエットしてキレイになりたい!!」

 

テレビを見てるとたまーにこういう人を見かける。

 

この手のセリフを見るたびに思うんだけど、

同窓会で会う人なんてほとんど他人と同じなんじゃないだろうか?

 

一応知り合い程度ではあるけど、しばらく会ってないし、

今後も会う予定の無い人。

 

そういう人に対して見栄を張る理由って一体どこにあるんだろう?

 

「普段はダイエットできてないけど、同窓会があるから頑張ろう。」

一日しか会わない人に虚勢を張って満足したところで、得るものなんか何もない気がするんだよなあ。

まずはダイエットを続けられない自堕落な日常に目を向けた方が、よっぽど改善の余地が見えてくると思うんだけどなあ。