夕暮れ時の寂しさに

昔は夕暮れどき空がまどろんでくると、何となく「ああ、今日も一日が終わるんだなあ」なんてノスタルジックな気分に浸ることが良くあった。

中高生の多感な時期のことだ。

 

世の中には全く寂しさを感じる人がいるようだ。

一人でずーっと部屋に籠っていても、全く問題ない。別に人と会いたいとも思わない。

そういう人に対してけっこうな憧れを持っていたりした。

なんせ夕日との別れにさえ寂しさを覚えてしまう訳だから、況んや一人の寂しさをや、という感じだったのだ。

 

かつて、果たして自分は孤独に耐えられるのか実験してみたことがあった。

要するに夏休みの暇を使って家に引きこもっていただけだったのだが、結果は惨々たるものだった。

薄暗い部屋で体も動かさずにぐだぐだしているものだから、まずとにかく気分が落ち込む。やる気が出ない。

そんな状態で何日も過ごして、いきなり寂しさがおそってくるものだから、逃げるように外に出てしまった。

 

しかし一度外を散歩して太陽の光を浴びると、精神は強さを取り戻して何とか立ち直っている自分に気がついた。人に出会うことはなかったのに。

もしかしたら寂しさというものは案外、陽光に左右されるものなのかもしれない。

雨の陰鬱とした気分も、夕暮れ時の寂しさも、つまりはそういうことなのかもしれない。

 

日本語というのは本当に紛らわしいものだ。

精神「力」なんて言うものだから、つい鍛えられるものだと思ってしまう。

寂しさや孤独は鍛えて克服するものでもなければ、いつのまにか慣れてしまうものでもないのではないか。

つまり外部環境に対する自身の反応の知覚なのだ。

 

いくら体を鍛えても、体に針を刺されたら誰だって痛がる。

痛みに耐えることは覚えられても、痛み自体を少なくする事は出来ない。

寂しさもきっと同じだ。

 

そう理解してからは、寂しさを感じることが少しずつ減っていった気がする。

心が強くなったからではない。

人間的に成長したからでもない。

きっと寂しさと出会わない方法を覚えただけなのだ。

 

今では夕日のノスタルジックな風情すら楽しむ余裕が出てきたと思う。

私はいま、夕暮れ時の寂しさに、一人の時間を満喫している。

 

表題はたまの名曲から拝借した。